「フェミストについて考える」 第4の神話 篠田節子

第4の神話 (角川文庫)

第4の神話 (角川文庫)

篠田節子シリーズでいきます。
フェミニストってきらい。というセリフが作中にあります(確か)私も、決して否定するわけではないし、すべての人がそうではないのかもしれないけれど、フェミニストと呼ばれる(または自称する)人たちの言動にはたまにちょっと違うんじゃないの、と思うときがあるのです。
なにかというとすぐ女だからって、と怒ってしまうのはいうなれば自分を卑下してみていることの表れのように思うのです。本当はそれが実力だからであって、または動物の性質上仕方が無い(性による得意不得意分野など)かもしれないのにすぐにそのせいだとしてしまうのは自意識過剰ととられてしまうように思います。本当に自分たちの立場を向上したいと思うのならば他にもっと良い方法があるんじゃないかな、と思います。結局実力社会なんだから性別関係なくこんなことができるんですよ、と自分で実行してみせるしか方法は無いのかもしれません。ただし私も理不尽に女だからといろいろ決め付けられているな、と感じることはあります。が、そんなことは自分で振り切って、がむしゃらに反抗してみて、ほらそんなことないでしょって見せ付けてやろうと思うのです。子供であるゆえの安易な考えかもしれませんが。
話がズレてしまいました。本の感想になってないや。
他人から見られる自分というものを意識しすぎ、ついにはそのイメージそのままで生きることを余儀なくされたまま死んでいった女性作家を追う未婚のフリーの女性ライター。2人の間にはなにも共通点がないかのように見えますが、やはり女性同士で共感できるところがあったのか、それとも同性であるがゆえの冷静な視点があったのか、幾度かの失敗や思い違いを重ねながらそれでも確実にライターは女性作家の心の闇を追っていきます。
確かに、「理想的な女性」を求める社会は、痛いです。そんなことを要求されるたびに、心が痛い。重い。うざったい。だけど振り払うにはたくさんの労力と根性が必要だし、逆にその痛みにさえ気づかない女性もいるでしょう。この作品でいうのならば前者はライターで後者は作家かな。ただし、作家のほうはそうであるともいえないのが読み進めていくうちにわかるのですが。
それでも、と篠田節子はいうのです。自らもフェミニストと呼ばれている彼女がそれに反抗するかのように、彼女は作品を通して伝えているのではないでしょうか。
間違ったフェミニストの道を歩む女性へ、
自ら理想的な女性という重荷を振り払おうとすあまり、更に硬い何もかもうけつけないフェミニストという更なる重荷を負ってしまっていることを、
理想の女性という重荷を押し付ける男性や社会へ、
自己を硬く閉じてしまうことの悲しさ、そこにあるものの空虚な絶望を、
そしてその重荷を抱えて歩んでいる女性たちへ、
その重荷は痛くて、辛くて、あきらめてしまいたくなるかもしれないけれど、なんとか踏ん張って生きていく道をさがそうと。
この女性ライターのように、うまくいかなくて、みじめでも、迷っても、きっと自分らしく生きていけることができる。素晴らしくよくなないかもしれないけれど、決して悪くはない。少なくとも重荷に押しつぶされたままよりは。
解釈しすぎ?まあ、それは置いておいて。