百年の恋 篠田節子

百年の恋 (朝日文庫)

百年の恋 (朝日文庫)

恋愛映画に出てくるような素敵なラブストーリーは心をドキドキさせてくれるけど、ふいに私の気持ちを落ち込ませるのです。はあ、どうせこんな素敵なことあたしの身には起きるわけがない、と。
よく言えば野生的でセクシーで、悪く言えばただの横暴で小汚いやつはいても、ブラッド・ピットは同じクラスにはいないし、
常識にしばりつけられず自由な人生を歩んでいるスネかじりのフリーターはいても、ジョニー・デップは合コンなんかには現れないし、
世の中の事情や様々なものに通じて中年男性の味を出しても、結局それが風俗関係だったりただのつまらない頑固者なオヤジはいても、リチャード・ギアは上司なんかにはならないのです。
男性の場合も同じように、メグ・ライアンキャサリン・ゼタ=ジョーンズニコール・キッドマンやらはスクリーンの中にしか存在しないのです。
だったら私たちの本当のラブストーリーはなんなのでしょうか?そう考えた時、最高のラブストーリーがここにありました。「え?これが?だって魅力的な展開なんて最初のほうだけであとはケンカやら仕事の問題やらなにやらで恋愛なんてひとつもないじゃないか」なんて思われるかもしれませんが、現実に考えてみれば恋愛の行き着く先なんてそんなものなのではないでしょうか。一生2人で薔薇の周りで愛を語り合っていられたら飯を食うために働くことも、税金払う必要もないわけで。恋愛映画のハッピーエンドに素敵な教会で素敵な誓いのキスをして結婚した2人もその後には愛が冷めたり金銭問題やトイレの蓋を閉める閉めないでケンカしているはずです。たぶん。
だったらこの作品は最高のラブストーリーなんじゃないでしょうか。世に言うオタクで、3低と呼ばれるライターの真一と、容姿端麗頭脳明晰、申し分のない女性といわれながらも実は黄色いシミのついたパンツをタンスの中に押し込み、小学生のような我儘さと凶暴さを持つ梨香子たちのの、収入の多い少ない、男性の威厳問題と女性の葛藤、そんなもろもろのいやあ〜な問題ばかりを抱えた2人のラブストーリーは、恋愛に対する夢や希望を打ち砕かれるかもしれないけれど、決して私に現実を思って虚しくなってしまうような幻想を抱かせたりはしません。
この2人の関係を愛というのか、なんてそれは愚問であって、その答えは作品中の彼に代弁してもらうこととしましょう。
「あの夜叉の顔を受けとめてやれるのは、自分しかいない。理由は「やっちまったから」だ。
男なら、と真一はつぶやいた。自分の腕が折れても爆発するこの女を受け止めてやらなければならない。」
「甲斐性なし男と身辺の面倒が見られない女、互いに一人で生きていかれない人間が、互いの必要性で結びついたとして、なぜ悪いのだ。だから結婚するんじゃないか。」
(本文中より)
これを愛と呼ばずとしてなんと呼ぶのでしょう。お互いクソくらえと思いつつも離れられない、冷めながらも、仕方ない支えてやろうと思う2人の関係は、まさに百年の恋なのではないでしょうか。冷めても、冷めない。離れたくても、離れられない。これだけで十分。文句のつけようが無い。最高のラブストーリーがここにあるのです。