蹴りたい背中 綿矢りさ

蹴りたい背中

蹴りたい背中

芥川賞受賞作としてあまりにも有名になったこの作品。どうしてこんなに認められちゃうんだろうなーって思ってしまいます。だって、主人公のどうしようもない我儘さとか、どうしようもなく痛々しいー少年、にな川。わかるのか。彼らの気持ちが。
なんて思ってしまうのは、やっぱり主人公やにな川と同じように、ある程度自分の中のどうしようもないような短所やらなにやらの世界を人から隠すようにこっそり生きている(主人公ならばクラスになじめない、にな川少年ならばオタクであることのような)ところが、痛いほどよくわかるからかもしれません。そして得てしてそのような人物はそれ以外の(と自分が思う)人物を「自分の世界」からハッキリと分別してしまうように思います。自分のそんな思いもきっとそのような流れだったのでしょう。
だけど、主人公のように、恋(といっていいのかはわからないけど、とりあえず相手を愛しく思う感情)をしてしまった相手に踏み込めないような向こうの世界と自分との間の溝を見つけてしまったら、どう思うのでしょうか。さみしくて、悲しくて、愛しくて、「蹴りたく」なってしまうのかもしれません。
ところで、最初の一文、「さみしさは鳴る。」は秀逸だと思います。様々なところで言われているように、その後7行ほども。こういうのの良さが認められるのって嬉しいような、そうじゃないような、複雑な気持ちです